横浜開港の地「象の鼻地区」
横浜開港の地「象の鼻地区」歴史的変化
開港期 安政6年(1859)頃
長い間外国との関係を絶ってきた日本ですが、江戸時代末期、
開国を求めて米国のペリー提督の一行が来航した事で、
日本とアメリカは、日米和親条約を調印します。
日本はこの条約によって、欧米諸国と初めて近代的な条約を結び、
開国の1歩を踏み出します。
2年後には、
初代駐日アメリ総領事と
なるハリスと
老中堀田正睦、
大老井伊直弼によって、
日米修好通商条約が結ばれ、
外国船を受け入れるため
横浜を開港します。
幕府は様々な思いから江戸や東海道から離れた横浜を貿易港として選びました。
開港によって整備された港は、現在の象の鼻地区で、運上所(うんじょうしょ)と石積みの防波堤を
2カ所建設します。運上所は、輸出入品の監督、関税の徴収などを取り扱った役所で、
現在の税関に当たりますが、江戸末期から明治にかけて、各地の開港場に設けられました。
文明開花期 明治元年(1867)頃
横浜が開国されると、港には外国の商船が世界各国から入港し、
一半農半漁の横浜は、貿易を中心にした港都に変わっていきます。
横浜の居留地には外国の商館が立ち並びます。
港の周りには幕府や藩の命令でも店を出しました。
また、集まった人々に生活用品を売る商売など、横浜は
「横浜商人」と
呼ばれる人々に
よって大きく発展
していきます。
貿易の拡大に伴い
開港期の防波堤を
湾曲した形に延長。
付近の海面を埋め立てられ、現在の山下公園に新波止場が新設され、町には鉄道や鉄橋、ガス灯等が
設置されるなど、横浜の文明開化が進んで行きます。
港湾整備期 明治29年(1896年)頃
新しく生まれ変わった横浜は、開国日本の象徴となり、その魅力に
ひかれて集まる人々によって高い文化交流が始まります。
来浜外国人は、新生日本(ヤングジャパン)の熱気に引かれ、
文化人や貿易商、技術者が集まります。
日本各地からはも多くの人が集まり、内外の先進的な産業や文
化を積極的に吸収して因習にとらわれず、それぞれ出身地文化
を横浜に融合させようとする「開放性」を作り上げていきます。
その良循環が横浜市民気質となり、
横浜は都市の収集拡大に伴い、
本格的な港湾施設整備が
求められます。
小像の鼻側は背面を埋め立てられ、
象の鼻堤防は外側を埋め立て、
大桟橋を築造します。
東波止場から 海岸通りを見る
(明治7年:1874)
南側岸壁には、レンガ造の庁舎が建設され、連絡鉄道が敷設されます。
港湾拡大期 大正6年(1917年)頃
拡大する貿易に対応するため、明治32年に始められた
新港ふ頭の約8万坪の埋め立てが完成します。
また明治43年(1900年)に設立された
「横浜経済協会」によって、工業誘致が本格的に始まり、
多くの地元経済人が横浜を発展させます。
市民生活においても、伊勢佐木町の芝居観劇やテニス、
野球などのスポーツが盛んに行われ、
国際都市らしい市民文化の花を咲かせます。
象の鼻地区は、堤防の鉄製大桟橋部を埋め立て、
大桟橋基部に水上警察署、海務署を設置します。
子象の鼻背後には、税関用地と新港ふ頭との連絡通路、
鉄道が建設されます。
震災復興期 昭和6年(1931年)頃
大正12年(1923)年に関東平野南部を襲った
「関東大震災」によって、横浜は壊滅的なダメージを受けます。
そうしたなか、停泊中の船によって地震発生当日、
1万3000人の人名が救助され、
船舶に設けられた無線電信で横浜の惨状を各地に伝えました。
救援の連絡手段は、船舶の無線電信しかありませんでした。
震災後の横浜経済は破滅し、
多くの外国商館が東京や大阪に
移転しましたが、
横浜市民の努力により
復興を成し遂げました。
震災復興後の姿を 残す象の鼻
(昭和30年:1955)
関東大震災で破壊された堤防は、旧来よりやや直線的に復旧され、
先端部には灯台が設けられ、基部には税関施設が建設されます。
戦後期 昭和40年(1965年)頃
昭和20年(1945)の第二次世界大戦による
横浜大空襲によって、横浜中心部は焼け野原になり、
終戦後、横浜の港湾施設は90%以上が連合軍に接収されました。
その後、外国からの客船が多く入港したり、ハワイ、
南米等の新天地に向かう移民船の出発など、人の交流が盛んに
なるにつれて、ジャズやリズム&ブルースなどがアメリカから
いち早く入り、横浜発の文化として日本中に広がって行きます。
昭和40年になると、日本の高度成長期とともに港も
コンテナ化が進み大型港湾化が推進していきます。
また、人口の急増に伴い団地や宅地造成が行われ、ベットタウン、
ニュータウンとして新たな横浜の都市像が形成されていきます。
連合軍に接収された港湾施設も昭和25年に横浜市に
管理が移行されます。
象の鼻先端部は、老朽化や船舶の衝突によって破損し
約30メートル短縮撤去しました。
横浜開港の地「象の鼻地区」 プロジェクト通信