プロジェクト通信 特集号 

近代土木遺産を旅して 軍艦島編 投稿者 藤田さん
2009年4月11日(土)晴天のなか、近代土木遺産の旅part2は軍艦島に行ってきました。
後で分かった事ですが、4月22日より一般の見学者も軍艦島に上陸できることになり、
マスメディアが大騒ぎしたのは杞憂です。
外周をひと廻りするだけの軍艦島クルーズですが、盛況で30人以上の観光客が同乗していました。
見学者用クルーズの船内では軍艦島の歴史を説明していましたが、
約10日後に上陸できる内容の説明は一言も無く、近い将来上陸できるようになれば価値が
海から見た軍艦島は、外周防波岸壁の高さと堅固な状態
に守られた要塞の様で
当時の近代土木技術を再確認出来
ました。
しかし、旧石炭出港波止場が新しく手入れをされ
(コンクリートが新しい)新しい防舷材が取り付けられ
た姿を見ると、世界遺産を目指す軍艦島に違和感を感じ
るのは私だけでしょうか?
今回、上陸はできなかったが好奇心のあるひとはいるも
ので、内部の状態を公開(上陸記)しているサイトもあ
り、近代建築(鉄筋コンクリートビル)の衰退さには驚
く限りです。今回の旅行は、予備知識無しで羽田から
長崎空港へいきなり降り立ち、
長崎行きの通船に乗ったところ、長崎港の反対側に着きました。
後で知りましたが、長崎市内にはバスが便利だそうです。
なにも知らず、高速船にのり長崎に行くと思うのは私だけ! 船が出るまで時間があったので
長崎空港を離陸着陸する飛行機を眺めていました。
長崎空港は日本でたしか2番目の海上空港だと思ったが、後で調べたら、世界で1番目の海上空港
由緒ある空港でした。関空および当方も工事に参加した新北九州空港の大先輩とのことです。
飛び立つ日航機と着陸の全日空機 NAGASAKIの植生文字があります
乗船時間30分、着いたのが時津港で、なんか長崎と違うと思いながら散策しましたが、電車の駅も
なければ町案内が少なく、1時間ほどうろちょろして役場の前で案内図を発見。
見当違いの場所発覚し、仕方ないのでタクシーで長崎港へ!大変な時間の無駄でした。
従って、軍艦島クルーズは明日出航となりました。
長崎港は開港150周年の記念として
軍艦島クルーズを実施しています。
やまさ開運のブースでチケット購入後、
待合所には軍艦島をPRしていました。
展示内容の一部です。
気を取り直して翌日12日
この日も天候に恵まれたれ、
本日のクルーズ船マルベージャ3号で外洋に出ます。総トン数87tの船です。
マルベージャ3号 復元唐船 飛帆
途中で停泊中の2隻の外国客船を発見
"CRYSTAL SERENITY"
今回が初入港のバハマ船籍
クリスタル・セレニティです。
全長250m 総トン数68,870トン
"SPIRIT OF OCEANUS"
もう1隻はスピリット・オブ・アセアヌス
こちらはだいぶ小さく、バハマ船籍
全長91m 総トン数 4,200トン
長崎港の港口にかかる女神大橋をバックに
クルーズ船は快調に軍艦島へ
軍艦島が見えてきました!
船上では撮影位置を確保したいと
場所取りが始まりました。
この角度が、一番軍艦「土佐」ににていると
模される撮影位置です。
消波ブロックの中空三角ブロックにて
消波している。
防波提(岸壁)の高さは10m以上もありそうですが、海が時化るとこの防波提をも波は乗り越え、
反対側まで行くとの説明を聞くと、自然の怖さを痛感します。
また、ここまでよく作ったなと再度、土木屋として先人の偉業に感心しました。
ひときわ目立つ高層アパートです。 コーナーのコンクリートが新しいが、
破損したのだろうか
狭い敷地にひしめき合うのが海上からでも解る。 真新しく整備されている船着場です。
灯台の整備のため? 実は10日後に
上陸できる様にするためでした。
こちらはドルフィン桟橋
ムアリングドルフィンの柱だけ残っている石炭を積載する貨物船の船着場とのことです。
クルーズは2時間程度(110分)です。
現在は上陸できるコースもあるらしく確認の上乗船されたし。
出航が21:30だったので、
午後から同じく旧炭鉱跡のやすらぎ伊王島にて
天然の石炭ならぬ、温泉でいやされて、
長崎を後にしました。
帰りは快適な空港バスにて女神大橋を渡り
長崎空港へ一直線!

余談ですが、長崎原爆記念館に立ち寄っていまし
たら時間を超過し、3分ほどバスの出発時間を
過ぎて慌てましたが、日曜日の最終便は首都圏へ
出張や帰るビジネスマンが多く、
バスが遅れており、間に合ったしだいです。
端島「はしま」まめ知識
端島(はしま)(通称軍艦島)は、長崎港から南西の海上約17.5キロメートルに位置する島で、
本来は現在の3分の1ほどの面積(南北約320メートル、東西約120メートル)しかない小さな
瀬でしたが、1897年(明治30年)から1931年(昭和6年)の34年かけて掘削された岩石によって
埋め立てられたものが現在の端島です。南北に約480メートル、東西に約160メートルあります。
石炭の発見は1810年(文化7年)と古いのですが、離島のため江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の
傍らに露出した炭を採炭する程度でした。
明治に入ると、長崎の業者によって本格的な採炭に
着手したものの台風等の被害で廃業します。
その後、三菱財閥に譲渡されて採炭を再開した端島
は、採炭開始から20年で高島炭鉱を抜く出炭量に成
長し、飲料水供給や小学校の設立などの、居住環境
が整備されて行きました。
1901年(明治34年)当時の端島→
端島炭鉱は良質な強粘炭が採れる事で、石炭出炭量が最盛期の1941年(昭和16年)には約41万トン
を出炭し、人口が最盛期を迎えた1960年(昭和35年)には5,267人になり、
人口密度世界一の東京23区の9倍以上に達しました。
島には炭鉱施設・住宅のほか、小中学校・店舗・病院・寺院「泉福寺」・映画館「昭和館」・理髪店・
美容院・パチンコ屋・雀荘・社交場(スナック)「白水苑」などがあり、
島内にほぼ完結された都市機能を有してました。
繁栄を続けてきた端島ですが、1960年以降はエネルギー革命により炭鉱が衰退し、
端島に残る集合住宅の中には、青山の同潤会
アパートより古いものがいくつか含まれており、
大正5年に建設された7階建の30号棟は日本初の
鉄筋コンクリート高層アパートになります。
端島で鉄筋コンクリート造の住宅が建設されたの
は、狭い島内に多くの住人を住まわせるため建物を
高層化する必要に迫られていたためであり、
第二次世界大戦前頃の物資が不足した時期でも
この島では例外的に建設が続けられました。
端島はその外観から通称「軍艦島」と呼ばれていま
すが、あくまで外部からの呼び名であり、
島民は専ら「端島」と呼んでいました。

ご参考までに、、
端島 軍艦島と呼ばれた岩礁の都市
軍艦島

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